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熊本地方裁判所 昭和51年(わ)164号 判決

主文

被告人両名をそれぞれ禁錮二年に処する。

被告人両名に対し、この裁判の確定した日から三年間、それぞれその刑の執行を猶予する。

訴訟費用は被告人両名の連帯負担とする。

理由

第一認定した事実

一被告人両名の経歴〈略〉

二新日本窒素肥料株式会社(現・チツソ株式会社)の社歴および水俣工場の事業内容等〈略〉

三水俣病原因物質(塩化メチル水銀)の生成および排出〈略〉

四水俣病の定義、発病機序、臨床、病理等〈略〉

五水俣病問題の推移〈略〉

六水俣川河口付近に発生した水俣病患者七名の状況

1  水俣川河口付近に発生した次の水俣病患者七名(胎児性水俣病の場合はその母親)は、いずれも水俣川河口以北海域で漁獲した魚介類を摂食していた。

(一) 中村末義

中村末義は、昭和三一年六月ごろから水俣川河口一帯で漁をして獲つてきた魚介類を食べるようになり、昭和三二年ごろ水俣湾湯堂地区で流行している奇病(水俣病)は、百間港の魚介類を摂食したことが原因らしいとの噂が広まつたことがあつたが、同人は自分億水俣川河口で魚を獲つているので関係がないとして漁を続けていた。

同人は漁を始めるようになつた昭和三一年六月ごろから発病前の昭和三四年三月ごろまでの間、殆ど毎日一本釣りや鉾突きの漁に出て、水俣川河口一帯でキスゴ、カレイ、コチ、スズキ、ブガイなどを獲つてきては専ら自家用にして食べ、一日平均の漁獲量は1.2キログラムから二キログラム位であつた。特に昭和三四年に入つた頃からは、連日ブガイを多量に漁獲してきて、酢味噌にしたり卵とじにしたりしてこれを一度に四〇〇グラム位食べていた。

(二) 船場藤吉

船場藤吉は、小舟四隻を持ち、網子を使い、津奈木湾一帯から湯の児沖に至る八代海海域で地引網漁をし、水俣魚市場に出荷していたが、藤吉は魚好きで自分のところで獲れた魚介類を毎日のように食べていた。昭和三三、四年ごろは、津奈木湾内、湯の児沖の海域で地引網漁をしていて、タレソ、タチウオ、チヌ、アジ、コノシロ、ボラ、スズキなどを獲り、傷物や小魚類は自家用にしていたが、一度の食事に約四〇〇グラム程度、一日平均一キログラム程度を摂食していた。

(三) 緒方福松

緒方福松は、舟四隻位を所有して、網子五名位を使い、田浦沖から恋路島の沖に至る不知火海域でイワシ綱、コノシロ網、ボラ網、キンチヤク網、地引網などの漁法で、漁業に従事していたが、連日のように自分のところで獲れた魚介類を摂食しており、昭和三三年ごろから発病するまでの間は、主にタチウオ、ボラ、コノシロ、カタクチイワシなどを、殆ど毎食ごとに食べ、平均すると一日に八〇〇グラムないし一、二〇〇グラム程度であつた。

(四) 船場岩蔵(本件被害者)

船場岩蔵は、船場藤吉と同様津奈木湾一帯から湯の児沖に至る八代海海域で獲れた魚介類を殆ど連日のように食べており、その量は一日平均約一キログラム位であつた。

(五) 篠原保

篠原保は、昭和二一年七月ごろから津奈木町福浜で漁師をするようになり、福浦から湯の児付近までの八代海沿岸海域を漁場にして一本釣り、鉾突きなどの漁法で魚介類を獲つていたが、水俣川河口以南海域で漁獲をしたことはなかつた。昭和三二、三年ごろから水俣湾地域で奇病(水俣病)が発生しているとの噂が広がつた際、同人は水俣湾およびその周辺以外の海域の魚介類は無害であると思い、しけの時以外は殆ど毎日一本釣りや鉾突き漁をして、一日平均八キロ位のボラ、チヌ、スズキ、アワビ、タチウオなどを獲つて売り、残りを自家用にしていたが、昭和三三、四年ごろは、一日平均約二キログラムを食べていた。

(六) 緒方ひとみ

緒方ひとみの母親は、津奈木町赤崎の農家の生まれであつたが、昭和二八年女島で網元をしていた義人と結婚し、以来漁業に従事し、同家では田浦沖から恋路島沖にかけての不知火海域で地引網、ボラ網、ゴチ網、流し網などの漁をしてタレソ、タチウオ、ボラ、コノシロ、ヒラアジ、グチ、ガラカブなどの魚介類を獲つており、ひとみの母親は殆ど毎日ボラ、コノシロなどを五〇〇ないし六〇〇グラム位摂食し、特に昭和三四年初めにひとみを身ごもりつわりが始まつてからは、これらの海域で獲れたタチウオ、ボラ、コノシロなどを刺身にして御飯代わりに食べていた。

(七) 上村耕作(本件被害者)

上村耕作の父母は、共に津奈木町福浜の生まれで、昭和三一年一一月結婚し、父親敏光は大工職であつたが、母親笑子の実家(漁業)の近くに住み同女の実家で獲つた魚介類を貰つてきて食べていた。

耕作の母親笑子の実家では、祖父森本権八が漁業を営み、手ぐり、夜ぶりなどの漁法でタチウオ、ガラカブ、メバル、タコ、イカ、アワビ、ビナ、キス、クツゾコ、エソ、カニ、エビ、セイゴなどを平国から湯の児鼻にかけての八代海沿岸海域で捕獲し、笑子は、耕作を妊娠中週に二、三回は実家から貰つてきた右海域で捕獲された魚介類を、二〇〇ないし三〇〇グラムあて食べていたほか、昭和三五年一月耕作を妊娠したことに気付いてからは、母体の体力作りのため、特に付近海域で獲れるカタクチイワシのイリコを毎日おやつ代わりに小皿一杯(一〇〇ないし一五〇グラム)あて食べていたが、妊娠中母体に特に異常は認められなかつた。

2  右水俣病患者七名の発症から死亡に至る経過、臨床症状は次の通りである。

(一) 中村末義

中村末義は、昭和三四年四月初めごろから、よだれをたらし、言葉がもつれ、茶碗を持つ手が震えるようになり、同月一二日ごろには、目もよく見えなくなり、タクシーに乗る際に車の屋根に頭をぶつけるなどの視野狭窄症状が現われ、同月一八日水俣病と診断され、同月二四日水俣市立病院に入院したが、約二か月半後の同年七月一四日同病院において死亡した。

同人が同病院に入院後死亡するまでの間の臨床症状は、言語障害、聴力障害、視野狭窄、四肢震とう、知能障害、歩行障害、痺れ感等であり、死後解剖の結果、体内水銀量が異常に高いことが判明した。

(二) 船場藤吉

船場藤吉は、昭和三四年六月ごろから手の痺れ感を訴えるようになり、灸をすえに行つていたが、その頃には、自転車を電柱に衝突させるなどの視野狭窄の症状も現われ、同年八月ごろ、水俣市内の緒方眼科医院で受診し、奇病(水俣病)の疑いがあると診断され、更に同年九月初めごろ、水俣市立病院で検診した結果、臨床的には水俣病とされ、同月二四、五日ごろから同病院に入院して手当を受けていたが約二か月半後の同年一二月五日病院において死亡した。

同人の主な臨床症状は、嚥下障害、運動失調、視力障害(視野狭窄)、言語障害等であり、死後解剖の結果、各臓器の水銀量が異常に高いことが判明した。

(三) 緒方福松

緒方福松は、昭和三四年九月中ごろから、急によだれをたらし、手足の痺れ感を訴え、目がよく見えなくなるなどの症状が現われ、同月二五日ごろ、芦北町所在の井上医院に入院したが、症状は更に悪化して人の判別ができなくなり、急に全裸になつて暴れたり、四つん這いになつて部屋中を這い回つたり、また目も見えなくなり、言語も出なくなり、同年一一月二二日水俣市立病院に転院したが、意識不明の状態で発病後二か月半後の同月二七日死亡した。

同人が井上病院に入院し、その後、水俣市立病院に転院して同病院において死亡するまでの間の臨床症状は意識混濁、言語ならびに視聴力障害、運動失調等であり、死後解剖の結果、各臓器の水銀量が異常に高いことが判明した。

(四) 船場山石蔵(本件被害者)

船場岩蔵は、昭和三四年夏ごろ、前記船場藤吉が手足の痺れ感を訴えだしたのと時を同じくして、手が震え目がかすんで網の修理ができないと訴えるようになり、同人が同年九月に水俣病に罹患している旨診断を受けて、水俣市立病院に入院した後、岩蔵にも手足の痺れ感が出るようになり、同人も同年一〇月一四日同病院に入院し、その後、湯の児病院に転院して治療を受けていたが、昭和四六年一二月一六日死亡した。

同人が水俣市立病院に入院し、湯の児病院に転院した後死亡するまでの間の臨床症状は、栄養不良、四肢変形、言語障害、視野狭窄、運動失調、流涎、難聴、右肋膜石灰化、肺萎縮像、心雑音(三尖弁口)等であり、死後解剖の結果、各臓器の水銀量が異常に高いことが判明した。

尚、剖検記録(昭和五一年押第一六九号の405)には、同人の発症は、昭和三二年であるかのような記載がなされているが、同人の子である船場満義の供述によると、右岩蔵の手足が痺れ始め、言葉がもつれるようになつたのは、昭和三四年夏ごろからであり、それ以前にはそのような症状がなかつたことが認められ、また、同剖検記録添付の臨床的診断書によると、同年九月下旬、手の震えが強くなり、談話がすらすらできず四肢端の痺れ感、聴力障害、歩行障害が現われたことが認められる。そうだとすると、同剖検記録に右岩蔵の発症が「昭和三二年」であるかのような記載があるのは、「昭和三四年」の誤記であることが明白である。

(五) 篠原保

篠原保は、昭和三四年一〇月一五日ごろから両手関節痛を訴え、漁の際、鉾を握つていてもそれが一本か二本かの区別がつかないようになつたので、同月下旬ごろ灸をすえに行つたが、その時、手が震えているのを指摘され、自分でもそれに気付くようになり、同年一一月初旬ごろから下肢に痺れ感を訴え出し、舟に乗つて漁に出る自信をなくし、このころから歩行障害が現われ、更に一一月一〇日ごろからは、言語障害、箸・茶碗が持てなくなる触感障害が現われ始め、同月中旬ごろからは口の周囲の痺れ感も訴えるようになり、同月二〇日水俣市立病院に入院して手当を受けていたが、約一か月半後の同年一一月二八日死亡した。

同人が水俣市立病院に入院後死亡するまでの間の臨床症状は、言語障害、四肢の痺れ感、運動失調、同心性視野狭窄、触感障害等であり、死後解剖の結果、各臓器の水銀量が異常に高いことが判明した。

(六) 緒方ひとみ

緒方ひとみは、昭和三四年九月一二日芦北町女島で六人同胞の第三子(長女)として出生した。妊娠一〇か月の自然分娩(安産)で、出生時の体重は三、二〇〇グラム、普通新生児であり、出生直後は特に変わつたところは見られなかつたが、生後二か月ごろから二〇〇日ごろまでの間は、殆ど毎日昼は泣いていて授乳もできないような状態が続き、水俣市内の田上医院で受診したが、原因が判らず、更に熊本大学医学部附属病院で受診したところ、「脳に異常がある」との診断であつた。その後満一才になつても立つことができず、満二才のころからようやく歩くことができるようになつたが、意思表示や手足の運動などは普通の子供と異なつており、「知恵遅れ」を思わせていた。

緒方ひとみは、現在生存中であるが、既に判示した胎児性水俣病の臨床、病理の症状が顕著に認められ、昭和四五年四月三〇日胎児性水俣病と認定された。

(七) 上村耕作(本件被害者)

上村耕作は、昭和三五年八月二八日津奈木町福浜で四人同胞の第三子(長男)として出生した。妊娠一〇か月の自然分娩(安産)で、出生時の体重は三、五七五グラム、身長47.5センチメートル、胸囲四〇センチメートル、頭囲四〇センチメートルであつた。生後一年の昭和三六年八月までは母乳のみで育てられ、その後母乳のほかに離乳食としてかゆなど与えられ、完全離乳をしたのは、昭和三七年三月一四日であつた。

生後二、三か月のころ四〇度近い発熱が二、三日続いたことがあつたが両親は異常には気が付かなかつた。生後一年を経過したころになつても首がすわらず、這うこともできず、言葉も出ず、また親の顔も覚えないためおかしいと気付くようになり、津奈木町所在の松本病院で受診したところ、「目が見えないようだ」と指摘され、更に昭和三六年九月八日水俣市立病院で受診した結果、脳性小児麻痺と診断された。その後生後一年七か月の時、両親らと共に京都に移住したが、二、三か月おき位に三八度から四〇度位の発熱があり、また下痢を起こし易く、度々医師の診療を受け、昭和三七年三月一四日から同年六月一〇日までの間、風邪を悪化させて、肺化膿症で国立京都病院に入院したこともあり、昭和三九年同病院で脳性小児麻痺重心児(日常生活全介助)の診断を受け、二級身体障害者手帳の交付を受けた。昭和四八年五月二六日ごろ熊本大学原田正純助教授の診察を受けて胎児性水俣病の疑いがあると診断された。

同人は発育不良のため就学せず、昭和四八年六月一〇日(一二年九か月半)死亡した。最後まで言語不明、よだれ、大小便はたれ流しで、食事は自分ではできず、やわらかい御飯か、かゆ等をスプーンで与えられていた。死亡時の体重は16.5キログラム(一三才男子平均43.7キログラム)、身長一三四センチメートル(同平均154.0センチメートル)で、体重は同年児と比較して半分以下であつた。

上村耕作についても既に判示した胎児性水俣病の臨床、病理の症状が顕著に認められ、死因は胎児性水俣病を主因とする栄養失調と脱水症であると認められた。

なお、水俣工場、水俣湾(百間港)、水俣川(同河口)、津奈木湾、湯の児、田浦、恋路島、福浦、平国の各位置関係は別紙第三図の通りである。

七罪となるべき事実

被告人吉岡喜一は、昭和三三年一月八日から昭和三九年一一月三〇日までの間、化学製品の製造等を業する新日本窒素肥料株式会社の代表取締役社長として同会社の業務全般を総理し、熊本県水俣市野口町一番一号所在の同会社水俣工場の担当取締役兼同工場長を直接(但し、昭和三五年五月一日から昭和三七年五月三一日までの間は、千原末夫専務取締役兼九州事業本部長を介し)指揮監督し、同工場の操業およびこれに伴う危害発生の防止等の業務に従事していたものであり、被告人西田榮一は、昭和三二年一月一日から昭和三五年五月三一日までの間、右水俣工場工場長(昭和三二年五月三〇日同工場担当取締役に就任)として同工場の業務全般を処理し、同工場の操業およびこれに伴う危害発生の防止等の業務に従事していたものであるが、同工場においては、昭和七年以来アセトアルデヒド製造に伴い触媒として使用した重金属である水銀を含有する工場排水を百間港を経て水俣湾内に排出していたところ、同湾で捕獲された魚介類を摂食していた同湾周辺住民の間に原因不明の疾病が多数発生し、昭和三一年五月に至つていわゆる水俣病として問題化し、同年一一月三日右の発病原因究明にあたつていた熊本大学医学部水俣病研究班の中間報告会において、水俣病はある種の重金属による中毒性疾患であり、右重金属により汚染された水俣湾産の魚介類を摂食することによつて発病する旨の発表がなされたが、これは右汚染源が、同湾に流入している同工場の工場排水中に含有されている化学物質にある疑いが濃厚である旨指摘したものであり、昭和三二年三月七日参議院社会労働委員会において国立公衆衛生院松田心一疫学部長から、水俣病の原因について熊本大学医学部水俣病研究班は同工場の排水も疑つて研究を続ける必要があるとして、土壌、海水を分析している旨、更に昭和三三年六月二四日同委員会において厚生省公衆衛生局尾村偉久環境衛生部長から、水俣病はある種の金属による脳症を起こす中毒であり、その原因物質の発生源としては同工場の排水が最も推定される旨の各説明がなされ、同年七月七日厚生省において同省公衆衛生局長名で通産省、熊本県知事等関係行政機関に対し、これまでの研究成果より、水俣病は新日本窒素肥料株式会社水俣工場の廃棄物が水俣病の湾港泥土を汚染し、その廃棄物に含有されている化学毒物と同種のものによつて有毒化した魚介類を多量に摂食することによつて発症する中毒性脳症であると推定される旨指摘し、今後の研究更に水俣病問題の対策方の協力を要請するに至つたのであり、しかもその間にも、水俣病による死傷者が続出していたのであるから、同工場の操業に伴う危害の発生を防止すべき同会社代表取締役社長および同工場担当取締役兼工場長である者は、同工場の排水が水俣病の原因毒物を含有していることを当然認識し得たのであり、その被害の甚大なことに鑑み、遅くとも前記厚生省公衆衛生局長名の要請が発せられた昭和三三年七月以降は、その安全が確認されるまでは、百間港を経て水俣湾に排出していた工場排水を水俣川河口海域に排出しない措置を講ずべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、いずれも昭和三一年以降の水俣病問題の経過を熟知しながら、自己および自社技術陣の化学知識を過信・妄信し、的確な根拠もないのに、同排水は水俣病の原因毒物を含有していないものと軽信して、漫然、昭和三三年九月初旬から昭和三五年六月末ごろまでの間、継続的に同工場のアセトアルデヒド製造工程において副生した塩化メチル水銀を含有する排水を、八幡プールを経て直接あるいは地下滲透水として濾出させて水俣川河口海域に排出した過失により、同海域の魚介類を右塩化メチル水銀によつて汚染させ、よつて、同海域で捕獲された魚介類を摂食した船場岩蔵(明治二五年六月一四日生)をして、昭和三四年九月二七日ごろ、熊本県芦北郡津奈木町岩城二、二八〇番地の同人方において、成人水俣病に、母親が妊娠中に同海域で捕獲された魚介類を摂食した上村耕作(昭和三五年八月二八日生)をして、昭和三五年八月二八日、同町大字福浜一、六八六番地上村敏光方において、胎児性水俣病に、それぞれ罹患させ、昭和四六年一二月一六日、水俣市大字浜三、〇八〇番地水俣市立附属湯の児病院において、水俣病に起因する嚥下性肺炎により右船場岩蔵を、昭和四八年六月一〇日、京都府宇治市小倉町西浦九一番三〇号上村敏光方において、水俣病に起因する栄養失調・脱水症により右上村耕作を、いずれも死亡させたものである。

第二証拠の標目〈略〉

第三一部免訴の理由

本件公訴事実の要旨は別紙の通りであるが、訴訟条件である公訴時効の点について検討する。

まず、公訴時効期間の起算点について考察するに、これを実行行為の終了時と解すると未遂犯を処罰する規定のない場合の結果犯については、結果が発生しないうちに公訴時効が完成してしまつて、公訴の提起ができない場合が生じることになり不合理な結果を招くことになる。公訴時効制度の存在理由については、種々の根拠と理由が上げられるが、その中心的なものの一つは犯罪の社会的影響が平静に帰し、微弱になるという点にあるのだから、結果犯については、犯罪による社会的影響の重要な要素の一つである結果の発生をまつて、この時点から公訴時効期間が進行すると解するのが、公訴時効制度の存在理由に合致するというべきである。

次に、本件は被害結果の全部がいわゆる観念的競合の関係にあるものとして起訴されたものであるが、観念的競合犯においては一個の行為が数個の罪名に触れる場合に、これを科刑上一罪として取り扱うものであるから、公訴時効の期間算定については、各別に論ずることなく、これを一体として観察すべきものであつて(最高裁判所昭和四〇年(あ)第一、三一八号昭和四一年四月二一日第一小法廷判決・刑集二〇巻四号二七五頁参照)、これを原則とする。しかしながら、観念的競合犯は実体上の数個の罪を包含するものであり、各罪は他の罪のために吸収されることなく互に併存するものであるから、単純一罪と異り、これを分離して処断することを絶対に許さない性質のものではないのであつて、右の数個の罪を一括してその最も重い刑をもつて処断する場合に比べて格別不利益とならず、かつ、社会通念上妥当と認められる場合には、これを分離して処断することも許されるべきである(大審院大正一二年(れ)第一、一〇六号同年一二月五日第三刑事部判決・刑集二巻一二号九二二頁参照)。そこで、これを公訴時効の期間算定について考えてみるに、観念的競合犯においては、一個の行為が同時か、または、さほどの時間的な間隔を置くことなく数個の罪名に触れる場合を常態とするのであるから、このような通常の場合には、これを単純に一体として観察して公訴時効の期間算定をすれば足りるのであるが、まれには、一個の行為から順次、相互にかなりの時間的間隔を置いて数個の結果が発生し、これが観念的競合の関係にある場合も生じるのであつて、このような場合に、その結果の全部について、これを単純に一体として観察して公訴時効の期間算定をすると、既に発生した結果に対する罪の刑を標準とする公訴時効の期間が経過し、一旦、これに対する公訴権が消滅したかにみえたものが、その後、別個の罪に触れる結果の発生によつて、これに対する罪の刑を標準とする公訴時効の期間が経過するまでは、場合によつては何十年間も不確定な状態に置くことになつて、公訴時効制度の精神と矛盾することになる。従つて観念的競合犯の公訴時効の期間算定については、各別に論ずることなく、これを一体として観察すべきものであるけれども、いま仮に、一個の行為が順次数個の罪名甲罪・乙罪・丙罪に触れる場合に、甲罪とその公訴時効期間内に結果が発生した乙罪とはこれを一体として観察して、その最終の公訴時効期間が経過するまでの間に、更にこれと観念的競合の関係にある丙罪に触れる結果が発生しなかつた場合には、この限度において甲・乙罪につき公訴時効が完成し、その後にこれと観念的競合の関係にある丙罪に触れる結果が発生したとしても、既に公訴時効期間が経過した甲・乙罪に対しては絶対的に公訴権が消滅するものと解すべきである。けだし、観念的競合犯の公訴時効の期間算定については、右の限度においてこれを一体として観察したうえ、一度、公訴時効期間が経過した以上、後になつて公訴権が復活するような結果を招くことは、公訴時効制度の趣旨に反するというべきである。

これを本件についてみるに、本件公訴事実によると、被害者全員に関する罪について観念的競合の関係にあるとして起訴されたものであるから、中村末義、船場藤吉、緒方福松、篠原保に関する業務上過失致死罪、緒方ひとみに関する業務上過失傷害罪については、上村耕作、船場岩蔵に関する業務上過失傷書罪をも含めて、これを一体として観察し、上村耕作に関する業務上過失傷害罪(昭和四三年法律六一号による改正前の刑法二一一条前段)の刑を標準とする公訴時効期間三年が経過した昭和三八年八月二七日限りで公訴時効が完成したことになる。よつて、本件公訴事実中、中村末義、船場藤吉、緒方福松、篠原保に関する業務上過失致死罪、緒方ひとみに関する業務上過失傷害罪についての部分は、これを免訴すべきものである。もつとも、被害者上村耕作、船場岩蔵に関する本件公訴事実は、業務上過失致死を訴因とするものであるけれども、この訴因には右被害者両名に関する業務上過失傷害の訴因をも、黙示的、予備的に包含されているのであるから、右被害者両名に関する業務上過失致死罪と観念的競合の関係にあるとして起訴された中村末義、船場藤吉、緒方福松、篠原保に関する業務上過失致死罪、緒方ひとみに関する業務上過失傷害罪の公訴時効については、上村耕作、船場岩蔵に関する業務上過失傷害罪をも含めて、これを一体として観察して、その期間を算定すべきものである。

第四弁護人の主張に対する判断

一迅速裁判条項について

弁護人は、本件は被告人両名の過失行為とされるものが、昭和三三年九月から昭和三五年八月ごろまでの所為であり、傷害の結果が発生したとされるのが昭和三四年四月から昭和三五年八月までであつて、本件被害者七名のうち四名までが昭和三四年中には死亡しているのであるから、爾後一五年以上を経過した昭和五一年五月に至つての起訴は、事案の内容を勘案しても著しく遅延した起訴であり、そのため、被告人両名の永年の生活の平衡が失われ、証人の記憶喪失、物証の散逸等により立証が困難となるなど憲法が保障する被告人の諸権利が侵害されているのであるから、一連の刑事手続としての処理が迅速性を欠如している以上、憲法三七条一項に違反するものとして、最高裁判所昭和四七年一二月二〇日の大法廷判決の趣旨に則り、免訴の判決がなされるべきであると主張する。

よつて考察するに、憲法三七条一項に規定する迅速な裁判を受ける権利の保障は、元来、刑事被告人を当該刑事手続から迅速に解放することを直接の目的とするものであるが、刑事被告人が迅速な裁判を受けることによつて享受する利益はこれのみに止まらず、長期間のうちに証拠が散逸することによつて受ける不利益の防止など多数の副次的効果を生むものであり、このような効果は、公訴提起後の迅速な審理・裁判を受けることによつて保障されるのは勿論であるが、起訴前の迅速な捜査と迅速な起訴とによつてもたらされることも亦疑いのないところである。更に、被告人にとつて、著しく遅延した公訴の提起は、起訴後の審理・裁判の遅延より以上に不利益を蒙る場合が少なくないことなどを勘案すると、憲法三七条一項の迅速な裁判を受ける権利の保障が、著しく遅延した公訴提起の禁止をも当然に含むものではないとしても、これを実質的に観察して、少なくともこのような公訴の提起はこれを禁止するのが、憲法三七条一項の精神に合致するものであると考える。

もつとも、公訴提起の遅延は公訴時効制度によつても防止することができ、それ自体極めて有効・強力な制度的保障であるけれども、公訴時効は法定期間の経過により、画一的に公訴権を消滅させるものであつて、いわば最少限の遅延防止を形式的に保障するに止まり、公訴提起の遅延を実質的に防止するためには、なお不十分な制度であるといわざるを得ない。また、公訴の提起については、検察官に極めて広い裁量権が認められているが、これとても決して無制約ではなく、合理的かつ適正な裁量に基づかなければならないのは論をまたないところであつて、証拠の収集が十分になされ犯人が判明し、容易に起訴できたにも拘らず、捜査官の怠慢あるいは一定の恣意的な目的等のために故意または重大な過失により何らの措置もとらず日時を徒過し、著しく遅延して起訴したような場合などには、公訴提起の禁止に触れる場合もあり得るといわねばならない。以上の諸点を実質的に考察してみても、たとえば結果犯において、行為と結果発生との間にさほどの時間的経過がないのが通常であるから、公訴時効の起算点を結果発生時にとつても格別の不都合を生じないが、まれには行為終了時と結果発生時との間に長年月が経過している場合があり、このような場合には公訴時効制度による公訴提起の遅延防止のみでは不十分なものがあるのであつて、加えて、捜査官の故意あるいは重大な過失によつて公訴提起が著しく遅延したとすれば、被告人の不利益は甚大なものとなる。

ところで、公訴の提起が著しく遅延したものであるというためには、単に遅延した期間のみによるべきでないのは勿論であり、遅延の原因、理由等を総合し、かつ、起訴の遅延のために実際に害された被告人の諸利益を勘案して判断すべきものである。そして、このような著しく遅延した公訴の提起は、刑事訴訟法一条の規定に違反するものであるから、同法三三八条四号により公訴を棄却されるべきものである。

これを本件についてみるに、まず、本件被害発生当時、被告人両名の行為と本件被害の発生との間の因果関係を合理的な疑いを入れない程度に立証できたか否かについて検討すると、本件公訴事実中の最初の被害者である中村末義が死亡した直後である昭和三四年七月二二日に熊本大学医学部水俣病研究班は、患者の臨床・病理がハンター=ラツセルの報告した有機水銀中毒例に酷似すること、患者の尿、剖検例の諸臓器から多量の水銀が証明されること、自然発症猫の臨床・病理が人のそれと酷似し、その臓器に多量の水銀を認めること、水俣湾魚介類から他海域のものより多量の水銀が検出されたこと、水俣湾海底泥土に多量の水銀が分布すること、水銀を含有する魚介類を猫に投与して臨床・病理的に自然発症猫の症状を再現できることなどから、水俣病の原因物質として有機水銀が注目される旨発表しており、それまでの水俣病問題の推移を併せ勘案すれば、遅くとも右発表直後には捜査に着手することができ、それによつて、昭和三三年七月の厚生省公衆衛生局長通知以後にアセトアルデヒド排水の排出経路の変更がなされていることも発見できたはずであり、しかも約一年半の捜査によつて本件起訴がなされていることを総合すると、中村末義に関する業務上過失致死罪については遅くとも右有機水銀説発表直後から、船場藤吉、緒方福松、船場岩蔵、篠原保については、それぞれ発病の時から業務上過失傷害罪として(船場岩蔵を除く四名については遅くとも致死の結果の発生した昭和三四年一二月中には業務上過失致死罪として)捜査が可能であり、通常の捜査を遂行すれば、その公訴時効期間三年内に公訴を提起できた可能性は極めて大であつたといえる。しかしながら、胎児性水俣病が成人水俣病、小児水俣病とは別個の水俣病と確認されたのは、昭和三七年九月の武内教授の剖検によつてであり、翌年四月日本病理学会に報告されて胎児性水俣病と呼称されたのであつて、しかも胎児性水俣病と認定されるには病理解剖の結果を待たねばならない例が多く、本件被害者の一人である上村耕作についても、昭和四八年五月二六日ごろ、熊本大学原田助教授によつて胎児性水俣病の疑いがあると診断されるまでは、脳性小児麻痺とされていたのであり、死亡後の病理解剖によつて胎児性水俣病と認定されたのであるから、そのころから上村耕作に関する罪について捜査が可能となつたものであるといわざるを得ない。そうだとすると、同人に関する業務上過失致死罪についての起訴は、その捜査過程に徴すると著しく遅延したものとは認められない。また、同じく胎児性水俣病患者である緒方ひとみは、昭和三四年九月一二日出生であるが、同女が胎児性水俣病と認定されたのは既に同女に関する業務上過失傷害罪の公訴時効完成後約六年八か月を経過した昭和四五年四月三〇日であるから、もはや同罪に対する公訴権は消滅しており、公訴提起の遅延を問題とする余地は全くないということになる。

ところで、本件公訴事実中の各被害(結果)の発生は被告人両名の一個の行為によるもので、それらが観念的競合の関係にあるとして起訴されたものであるから、本件公訴提起の手続の適法性を判断するについては、これを一体として考察すべきものである。そうだとすると、上村耕作、緒方ひとみ両名以外の被害者らに関する業務上過失致死罪について被告人両名に帰責事由として相当期間内に鋭意捜査がなされていなかつたとしても、上村耕作に関する業務上過失致死罪および緒方ひとみに関する業務上過失傷害罪の公訴の提起が著しく遅延したものでないから、本件公訴提起の手続そのものは全体として適法であるといわざるを得ない。もつとも、上村耕作、船場岩蔵両名以外の被害者らに関する罪については、前示の通り公訴時効の完成により免訴すべきものであるが、それは本件公訴提起の手続そのものが適法であることを前提とするものであるから、ここに併せて判示した次第である。

よつて、弁護人の右主張はこれを採用しない。

二公訴時効について

弁護人は、本件公訴事実によると、上村耕作は昭和三五年八月二八日出生と同時に胎児性水俣病に罹患して傷害を負つたのであるから、その時から三年を経過した昭和三八年八月二七日限りで同人に関する業務上過失傷害罪の公訴時効が完成したものであり、その後、同人が右傷害によつて死亡したとしても、事件の同一性を失うものではないから、これと別異の事件として公訴時効が論じられるものではないのであつて、本件は昭和三八年八月二七日限りで公訴時効が完成しているものであると主張する。

よつて検討するに、公訴時効完成の実体上の効果は、実体上の各罪を基準としてこれにおよぶのであつて、構成要件を異にする他罪にはおよばない。業務上過失死罪と同傷害罪とは同一の条文に規定されているけれども、構成要件を異にするものであつて、両罪の関係は、同一の客体に対して業務上過失致死罪が成立すれば、業務上過失傷害罪は成立しないという意味において講学上いわゆる法条競合に属するものである。従つて、同一客体に対して業務上過失傷害罪が成立した後、これに対する公訴時効が完成したとしても、それは業務上過失傷害罪についての公訴権を消滅させる効果を生ずるに止まり、業務上過失致死罪についての公訴権までも失わせるものではない。もつとも、同一客体に対する業務上過失傷害被告事件が公訴時効完成の故をもつて免訴となり、この免訴判決が確定した場合には、これと事件の同一性がある同一客体に対する業務上過失致死被告事件については、右確定判決の既判力ないし一事不再理の効力がおよぶため、その後更に右致死罪について訴追することは訴訟条件を欠くことになるけれども、これは右免訴の確定判決の効力によるものであつて、右業務上過失傷害罪の公訴時効完成の効果によるものでないことは、これを詳細に論ずるまでもなく明白なところである。

その他公訴時効については、前記第三において詳細説示した通りであつて、これを本件についてみると、上村耕作、船場岩蔵両名に関する業務上過失致死罪については、観念的競合の関係にあるとして起訴されたものであるから、公訴時効期間の算定については、これを一体として観察し、上村耕作が死亡した昭和四八年六月一〇日を起算点とすべきものであり、本件起訴当時、公訴時効は完成していなかつたことになる。

よつて、弁護人の右主張はこれを採用しない。

三胎児性致死について

弁護人は、本件被害者上村耕作は、胎児性水俣病患者であり、同人は胎生八か月ごろには、既に水俣病に罹患し発症していたものであつて、出生と同時に発病したものではないから、「人」として傷害を受けたことにはならないのであつて、同傷害によつて死亡したとしても、業務上過失致死罪は成立しないと主張する。

よつて考察するに、業務上過失致死罪が成立するには、構成要件要素としての客体である「人」の存在が必要であり、通常、これが実行行為の際に存在するのを常態とする。しかしながら、構成要件要素としての客体である「人」の存在が欠如する場合に業務上過失致死罪が成立しないとされるのは、客体である「人」が絶対的に存在しないため、究極において、構成要件的結果である致死の結果が発生する危険性が全くないからである。

ところで、胎児性水俣病は、母体の胎盤から移行したメチル水銀化合物が、形成中の胎児の脳等に蓄積して病変を生じさせ、これによる障害が出生後にもおよぶものであるから、胎児の脳等に病変を生じさせた時点においては、構成要件要素としての客体である「人」は未だ存在していないといわざるを得ないのであるが、元来、胎児には「人」の機能の萠芽があつて、それが、出生の際、「人」の完全な機能となるよう順調に発育する能力があり、通常の妊娠期間経過後、「人」としての機能を完全に備え、分娩により母体外に出るものであるから、胎児に対し有害な外部からの侵害行為を加え、「人」の機能の萠芽に障害を生じさせた場合には、出生後「人」となつてから、これに対して業務上過失致死罪の構成要件的結果である致死の結果を発生させる危険性が十分に存在することになる。

従つて、このように人に対する致死の結果が発生する危険性が存在する場合には、実行行為の際に客体である「人」が現存していなければならないわけではなく、人に対する致死の結果が発生した時点で客体である「人」が存在するのであるから、これをもつて足りると解すべきである。業務上過失致死罪において、その実行行為に際して、客体である「人」が存在しているのが常態ではあるけれども、実行行為の際に客体である「人」が存在することを要件とするものではない。

これを実質的にみても、業務上必要な注意義務を怠つて、人に対して致死の結果を発生させた場合に、その原因となる行為が胎児である間に実行されたものであつても、あるいは、人となつた後に実行されたものであつても、これを価値的にみて、その間に格別の径庭はないのであり、また、人に対する致死の結果を招来させた原因が胎児のうえに生じたものであつても、あるいは、人に生じたものであつても、それは人に対する致死の結果に至る因果の過程を若干異にするだけであつて、その間に刑法上の評価を格別異にしなければならないような本質的な差異はないというべきである。

これを本件について検討するに、被告人両名は昭和三三年九月初旬から昭和三五年六月末ごろまでの間、水俣工場のアセトアルデヒド製造工程において副生した塩化メチル水銀を含有する排水を水俣川河口海域に流出させた過失行為によつて、上村耕作の胎生八か月前後ごろに胎児であつた同人の「人」の機能の萠芽に障害を生じさせ、よつて同人が本来持ち合わせてしかるべきはずであつた健康状態・機能を奪い、胎児性水俣病の疾患を持つた先天性の障害児として出生させ、もつて右胎児性水俣病に基因する栄養失調・脱水症により死亡させたのであるから、業務上過失致死罪が成立することになる。

なお、付言するに、業務上過失致死罪は、人に対する致死の結果が発生して初めてその成立をみるのであるから、胎児性水俣病による業務上過失致死罪においても、胎児に対して障害を生じさせたこと自体をもつて、同罪が成立するものでないことは多言を要しないところであり、本件においても、上村耕作が胎生八か月時に受けた障害それ自体に対して、これを業務上過失致死(傷害)罪に問擬しているのではなく、出生により「人」となつた上村耕作に対する致死の結果について、これを業務上過失致死罪に問擬するものである。従つて、当然のことながら、人に対する致死の結果発生の予見が可能でなければならないのであつて、過失によつて胎児に障害を生じさせたうえ、等しく出生後に致死の結果を招来したとしても、致死の結果についての予見が可能でなければ業務上過失致死罪は成立しないということになる。

よつて、弁護人の右主張はこれを採用しない。

四因果関係について

弁護人は、アセトアルデヒド排水の排出経路が水俣川河口海域に変更された後六か月余りを経るのみで、同排水中に含有される塩化メチル水銀により本件被害が発生したとすることは、アセトアルデヒド排水の百間港経由水俣湾への排出が昭和四七年以来二〇年余を経た昭和二八年末になつて初めて水俣病患者が発生したこととの対比のうえで疑問があること、水俣湾と水俣川河口海域はいずれも不知火海の一部であつて、両海域の海水は連続し、潮流等によつて、水俣湾のメチル水銀が水俣川河口海域に拡散されていたこと、不知火海中に棲息する魚類は回遊し、水俣湾で汚染された魚類が水俣川河口海域に回遊していたことなどを併せ勘案すると、本件被害の発生と水俣川河口海域へのアセトアルデヒド排水の排出経路変更による水俣病原因物質である塩化メチル水銀を含有する同排水の流出との間の因果関係を確定することはできないので、被告人両名の刑事責任を認める根拠はないと主張する。

よつて、検討するに、前掲各証拠によれば、以下の事実が認められる。

(一)  昭和三三年までに発生した水俣病患者の胎どが水俣湾周辺住民であるのに対し、アセトアルデヒド排水経路が変更された後の昭和三四年以降は八幡・津奈木等水俣川河口およびその以北地域の住民に水俣病患者が多発している。

ちなみに、昭和四〇年一二月末現在、確実に水俣病疾患であると診断された患者総数一一一例の地区別・年次別発生状況およびその発生地域を示せば、左図、左表〈略〉の通りである。

なお、右表からも明らかなように昭和三二年、昭和三三年には水俣病患者の発生数が減少しているが、それは、本疾患流行の事態に対し、前記第一の五で認定した通り、熊本大学水俣病研究班による調査研究結果に基づいて、熊本県当局による水俣湾内での操業・同湾産魚介類の販売を自粛することを勧める行政指導が強力になされたことと、それと同時に住民が本疾患に対する恐怖心から自発的に漁獲・摂食を避けたからである。

もつとも、アセトアルデヒド排水の経路変更がなされた昭和三三年九月以前にも水俣川河口およびその以北地域に水俣病患者が発生しているが、昭和三三年九月以前に発症したことが確認されている胎児性水俣病患者山本富士夫については、同人の母親は水俣湾で漁獲した魚介類を摂食していたものであり、また、水俣病認定患者名簿によれば築地原司、浜田シズエが右排水路変更前の昭和三二年ごろおよび昭和三三年五月ごろに発病した旨の記載があるが、しかし、築地原司については昭和四五年二月一〇日、また浜田シズエについては同年一月二一日にそれぞれ水俣病として認定されているのであつて、いずれも発病したとされる時期から一〇年以上も経過した時点での認定であるのみならず、右両名が、どの地域で獲れた魚介類をそれまでに摂食していたのか全く不明であるのだから、右名簿の記載のみをもつて、本件被害者両名が水路変更の結果発病したとの事実を否定することはできないといわざるを得ない。

(二)  工場排水についての水俣工場および熊本県水産試験場の調査記録によれば、昭和三四年一一月七日までの同工場排水の水銀分析結果は次表〈略〉の通りである。

また、昭和三四年一〇月当時の海水中のトータル水銀含有量は、水俣湾では百間港が0.3ないし0.7r/l(一r/lは0.001PPMである)と高いが、その他の箇所は0.0ないし0.4r/lと比較的低く、水俣湾以外では、水俣川河口が0.1ないし1.1r/l(五か所の九回平均は0.48r/l)と高く、津奈木沖も0.2ないし0.94r/l(三か所の六回平均は0.41r/l)と高くなつており、更に同年に熊本大学医学部水俣病研究班が水俣湾および水俣川河口付近の海底泥土中の水銀量について調査した結果は、次図〈略〉に示す通りであるが、同図に示されるように、水俣湾内の海底泥土中には、著しく多量の水銀が含有されており、その分布状況は百間港側の工場排水口付近の2.010PPM(0.2パーセント)を最高値とし、湾外に向うに従つて水銀含有量は急激に減少し、水俣川河口付近の泥土中の水銀量は0.37ないし3.4PPMと少量であつたものの同河口で採取したアサリ貝は、水俣湾内のヒバリガイモドキに劣らぬ多量の水銀を含有していた。

これらの事実は、昭和三三年九月のアセトアルデヒド排水の水俣川河口への排水経路変更以後水俣川河口海域および同海域以北の海域における海水および棲息魚介類の塩化メチル水銀による汚染が顕著となつたことを示すものである。

(三) 前記第一の六で認定した通り、本件被害者両名を含めて前記中村末義ら七名の水俣病患者(胎児性水俣病の場合はその母親)が摂食した魚介類は、いずれも水俣川河口以北海域で捕獲されたものである。

(四)  中村末義、船場藤吉、緒方福松、篠原保の四名は、その症状、経過からみていずれも急性激症型の水俣病に属するものであり、これは、水俣病中、最も激烈急性で多くは短期間内に死に至るとされているものであり、このことは、その発病に接する短期間内に摂食した汚染魚介類を介して多量に体内に蓄積した塩化メチル水銀によつて発病するに至つたことを証左するものである。また、船場岩蔵は普通型の重症型であり、緒方ひとみ、上村耕作は胎児性水俣病であるが、いずれも本人あるいは母親が水俣川河口以北海域で捕獲した魚介類を摂食し、その結果前記中村末義らとほぼ同時期に発症している点を考慮すれば、その発症に接する比較的短期間内に摂食した汚染魚介類を介して体内に蓄積した塩化メチル水銀によつて発症するに至つたものであるといえる。

(五)  水俣病発症および同病により死に至るメチル水銀摂取量については、決定的に判明していないものの、諸研究結果からして発症値は二〇ないし三〇ミリグラムであり、致死量は二〇〇ミリグラムとされており、その発症時期は摂食する魚介類中のメチル水銀の量、魚介類の摂食量、更にその生物学的半減期によつて左右される。仮にメチル水銀化合物を連日0.1ないし0.3ミリグラムずつ摂取したとして、生物学的半減期を仮に七〇日とし、発症備蓄量をそれぞれ二〇、二五、三〇ミリグラムとして計算すると次表〈略〉の通りとなる。

たとえば、発症蓄積量を二〇ミリグラムとした場合、連日0.3ミリグラムのメチル水銀を摂取し続けたとすると一〇七ないし一〇八日(三か月余)で発症することになる。メチル水銀中毒症の発症には、急性、亜急性、慢性の各発症があり、急性、亜急性発症の場合は毒物摂取後の発症期間が短く、約三か月以内というものも多い。

また、魚介類中におけるメチル水銀化合物の蓄積は、いわゆる食物連鎖によるものであるが、水銀は水界の各種生物に短期間で高度に濃縮され易く、かつ、容易に排泄されない性質を有するため食物連鎖系の中で魚介類に蓄積されるのが極めて早い。

(六)  昭和三四年一〇月末からアセトアルデヒド排水は工場内循環方式により工場に逆送され、水俣川河口付近の八幡プールに貯水されて最終的には百間港に排出されていたものの、同工場においては、右八幡プール建設の当初から同プールに入つた排水が地下滲透水して、海に排出されることを目論んで設計していたことが窺えるのであり、八幡プール群(水俣川河口付近に所在する多数の沈澱用プール群のことであり、各プールの名称、位置、面積等は別紙第五図の通りである)は、いずれも旧海面あるいは低湿地に護岸を築くなどしてカーバイド残渣等で埋立てた後、その上にカーバイド残渣による堤防を築き、順次これを嵩上げしていつたものである(その構造については、別紙第一〇の1および2図の通りである)が、プール底部は極めて水を吸収し易いカーバイド残渣であり、送水を始めてから最初は総て地下に滲透し、五日ないし一〇日程経てプール側面への滲透水として現われ、固形物の沈澱によつてプールが満杯となつて使用中止後、沈澱物が乾燥するまで長期間を要し、また右プールの水面が海面より相当高い地点にあつた。更に、熊本大学医学部入鹿山且朗教助は、「水俣病の経過と当面の問題点」と題する論文(昭和五一年押第一六九号の355の報文集中に所在)の中で「昭和四一年五月、アセトアルデヒド排水の循環方式が採用(なお、精ドレンの装置内循環方式は昭和三五年八月に採用)されてからも貝中の水銀が前よりも減少しなかつたのは、八幡プールにたまつた水銀含有水が、サイクレーターを通じて水俣湾へ流されたためと考える。しかし、アセトアルデヒドの生産を停止した昭和四三年五月以降は貝中の水銀量は著明に減少した。塩化ビニール系統の排水も同年三月新しくできた八幡プールに蓄えられ、現在まで海へ流されていないため、現在では水俣湾海水の新たな水銀汚染の機会はない。また、水俣川河口の大崎海岸のアサリの水銀は昭和四三年三月まで五PPM前後、時に一〇PPMの水銀が含まれていたが、昭和四三年六月以降これも急激に減少し、同年八月には一PPM以下となつている。これは、おそらく旧八幡プールから洩れた水銀含有水が水俣川河口を汚染したためと考えられ、新プールができてから水俣川方面への水銀の排出が殆どなくなつたと考えられる」旨の研究発表をしている。

これらによれば、昭和三四年一〇月末にそれまで水俣川河口に排出していたアセトアルデヒド排水を工場内循環方式により工場に逆送したものの、八幡プールに貯水されていたアセトアルデヒド排水は相当量地下に浸透し、地下水等と一緒になり、直接または水俣川を経て水俣川河口海域に流出し、これと同時に、同排水にはメチル水銀が含有されていたのであるから、同排水と同様メチル水銀も相当量八幡プール底部から地下滲透して地下水と共に水俣川河口海域に流出したことが明らかである。

(七)  上村耕作は、その母親が昭和三四年一一月に受胎したが、その時は水俣工場のアセトアルデヒド排水の排水経路が水俣川河口から百間港に変更された直後であつて、水俣川河口へのメチル水銀の積極的な排出はなくなつたが、魚介類におけるメチル水銀の蓄積は、食物連鎖によつて増大し、一旦魚介類中に蓄積されたメチル水銀は、その生物学的半減期に応じてなお残存するため、水俣川河口への直後の排出を停止したとしても、それ以前の排出により、水俣川河口海域の魚介類にメチル水銀が多量に蓄積されていた時期で、直ちに水俣川河口海域の汚染が消滅する状態でなかつたうえ、既に前項で認定したように、逆送開始後も八幡プール内のアセトアルデヒド排水は、かなりの量が地下に滲透して地下水などと一緒になり、または直接水俣川河口海域へ流出していたのであり、しかも胎児性水俣病は母親が相当長期間にわたつて摂取したメチル水銀が、逐次、胎児に移行して発症するのであるが、そのメチル水銀が水俣工場から排出されて海中に流入し、魚介類に蓄積してこれを母親が摂取するまでにはある程度の期間を要するから、上村耕作は、その母親が、アセトアルデヒド排水の水俣川河口への直接排出によつて汚染状態が継続している時に、水俣川河口海域の魚介類を摂食したことによつて吸収したメチル水銀と八幡プールからの滲透によつて同海域に流出した排水によつて新たに汚染された魚介類を摂食したことによつて吸収したメチル水銀とが、その胎盤を通じて順次胎児であつた右上村耕作に移行したことによつて、胎生八か月前後の昭和三五年六月末ごろ水俣病の決定的病変を受けるに至つたものであるから、被告人西田榮一が昭和三五年五月三一日付をもつて水俣工場長の職を退任し、翌日から本社社長室担当取締役に就任していても、右上村耕作の発症に同被告人の排出行為が決定的な原因を与えていることになる。

以上の各事実を総合し、疫学的見地からみれば、昭和三三年九月のアセトアルデヒド排水の八幡プール経由水俣川河口への排水経路変更後、水俣川河口海域に塩化メチル水銀が多量に流出し、短期間のうちに魚介類を汚染し、その結果同海域の魚介類を摂食した本件被害者両名(胎児性水俣病である上村耕作についてはその母親が摂食)を水俣病あるいは胎児性水俣病に罹患させた事実が認められ、被告人両名によるアセトアルデヒド排水の水俣川河口への排水経路変更後の排出行為と本件被害者両名の発症との間の個別的因果関係は存在する。

もつとも、カタクチイワシのように水俣湾から水俣川河口海域に回遊する魚も存在する事実および水俣湾内外の潮汐、潮流により同湾の海水が湾外の海水と融合する事実が認められ、水俣湾内のメチル水銀が拡散され、水俣川河口海域の魚介類に影響をおよぼした可能性は否定できない。しかしながら、前記認定した事情の下では、このような水俣湾内のメチル水銀がある程度作用しているようなことがあつても、右判示の条件的因果関係を否定することはできない。

よつて、弁護人の右主張はこれを採用しない。

五予見可能性について

弁護人は、アセトアルデヒド排水は昭和七年以来引き続き排出されており、昭和二八年ごろ特に同排水が増量された事実がないにも拘らず、同年になつて初めて水俣病患者が発生したこと、本件行為当時水俣工場においては無機水銀を使用するのみで、これが有機化すること即ちアセトアルデヒド製造工程中に塩化メチル水銀が副生することは当時の化学知識をもつてしては考えられなかつたこと、また毒物は稀釈されれば無毒化されると考えられていたから、微量の塩化メチル水銀が海水生物の食物連鎖を経て、魚介類に濃縮蓄積され、その結果右魚介類を摂食した人間を水俣病に罹患させることは想定し得ないことであつたなどのため、当時、被告人両名は、水俣工場の排水に水俣病の原因物質が含有されていて、これが右のような経路を辿つて水俣病を発症させることを予見することはできなかつたものであると主張する。

よつて検討するに、過失犯の成立要件である客観的注意義務は、構成要件的結果発生の予見が可能であることを前提とするものであるが、ここに結果発生の予見が可能であるというのは、当該行為者の置かれた具体的状況の下おいて、一般人の立場からみて、当該行為と結果発生との間の基本的な因果の経過が予見可能であれば足りるのであつて、その因果の経過を、逐一、詳細に予見できなければならないものでもなく、また、専門的知識によつて裏付けられた予見である必要もないのである。本件において、水俣病の原因物質、その工場内での副生機序、原因物質の人体への移行経路、水俣病発症のメカニズムについて、それらが逐一、科学的に、詳細に、予見可能である必要はないのであつて、水俣工場の工場排水中に含有する、工場原料・製品・設備等から排出される何らかの化学物質が水俣病の原因となつており、このような工場排水が流出する周辺海域で捕獲した魚介類を摂食することによつて、水俣病が発症するものであることを予見できれば十分である。けだし、右の工場排水中に含まれる何らかの化学物質が水俣病の原因物質であつて、それが右のような経路を辿つて水俣病を発症させるものであることを予見できさえすれば、地域住民が魚介類を捕獲・摂食するおそれのある海域へ右のような工場排水を流出しないことによつて、水俣病患者の新たな発生を防ぐことができるからである。

そこで、本件実行行為の着手時である昭和三三年九月初旬ごろにおける結果発生の予見可能性についてみるに、右着手時において、被告人両名は、水俣病問題について、大学研究機関、厚生省当局などの専門機関による研究の結果、水俣病は水俣湾内において、ある種の化学物質によつて有毒化された魚介類を多量に摂食することにより発症する中毒性脳症であること、その化学物質としては主としてセレン、タリウム、マンガンが疑われること、水俣港湾は水俣市にある新日本窒素肥料株式会社水俣工場からの廃棄物により影響を受けていると考えられること、右水俣工場の廃棄物が港湾泥土を汚染していること、港湾生棲魚介類ないし回遊魚類が右廃棄物に含有されている化学毒物と同種のものによつて有毒化し、これを多量に摂食することによつて本症が発症すると推定されること、などが判明したとの事情を認識していたものであるから、前記第一において認定した通りの右着手時までの被告人両名の置かれた具体的な諸状況に照らして勘案すると、一般人の立場からみても、本件行為と結果発生との間の基本的な因果の経過は十分にこれを予見することができたものであり、このように判断するについては多くを論ずるまでもなく明白である。また、胎児性水胎病は、昭和三七年九月に至つて熊本大学医学部武内教授の剖検により成人水俣病、小児水俣病とは別個の水俣病と確認され、翌三八年四月に日本病理学会に報告されたものであつて、本件実行行為当時においては、未だ発見されていなかつたのであるけれども、成人水俣病についての予見可能性が右の通り肯定されるとするならば、水俣病の激甚な症状に鑑み、地域住民の妊婦がある種の化学物質によつて汚染された魚介類を摂食することによつて、その胎児がかなりの障害を受けて出生し、死に至る場合もあるであろうことは、一般人の常識をもつてしても当然に予測できるところであると考えられるから、胎児性水俣病患者であつた上村耕作の致死の結果についても、前示の通りの水俣病の原因物質とその移行経路の予見をもつて、本件行為と結果発生との間の基本的な因果の経過は十分にこれを予見できたものというべきである。

なお付言するに、水俣病の原因物質究明の過程において、水銀が被疑物質として発表されたのは、昭和三四年七月二二日、熊本大学医学部水俣病研究班報告会における報告をもつて嚆矢とするものであり、次いで、同年一〇月六日の水俣食中毒部会の厚生省食品衛生調査会宛答申を経て、同年一一月一二日、同調査会により、水俣病の原因物質はある種の有機水銀化合物である旨、厚生大臣宛の答申がなされるに至つたものであつて、本件実行行為の着手時である昭和三三年九月ごろには、精々、同月二六日、熊本大学医学部水俣病研究班報告会において、武内教授が被疑物質として有機水銀を取り上げて報告したが支持されるに至らなかつたとの経緯があるのみで、その他特に水銀を原因物質として検討していた形跡は窺えないのであるから、このような経緯に鑑みると、本件着手時において、被告人両名が水俣病の原因物質は有機水銀化合物であると予見するのは不可能であつたというべきである。しかしながら、本件結果発生の予見が可能であるための要件としては、前示の通り、水俣病の原因物質が何らかの化学物質であることが認識できれば十分であつて、それ以上に、右の化学物質が水銀であるが、はたまた、マンガン、セレン、タリウムであるか、などということは必要ではないのであるから、本件着手時において、水俣病の原因物質が有機水銀化合物であると予見することは不可能であつたとしても、本件結果発生の予見が可能であるとの前記判断に何らの消長をきたすものではない。

よつて、弁護人の右主張はこれを採用しない。

六期待可能性について

弁護人は、水俣工場において排水の流出を停止することは即ち同工場の操業を停止することを意味するが、当時水俣病の原因物質が確定しておらず、しかも水俣工場において原因物質の副生される機序および水俣病発生のメカニズムも科学的に確定されていないにも拘らず、操業停止の措置を採ることは、水俣工場が水俣市あるいは水俣市民に対し経済的に多大に寄与していたことに鑑み(水俣市税は全歳入の二割を超えていた)、水俣市あるいは水俣市民に対し甚大な悪影響をおよぼすという状況を考えると、被告人両名に対し、一切の工場排水の即時停止の行為に出ることを期待し得なかつたものであると主張する。

よつて検討するに、本件結果の発生を回避する措置を採つた場合に、仮に水俣工場の操業を停止する結果を招来し弁護人主張のような経済的利益が喪失されるとしても、厚生省公衆衛生局長通知の発せられた昭和三三年七月当時に判明していた水俣病患者は六四名にのぼり、そのうち二一名が死亡するという極めて重大深刻な結果をもたらしているのであるから、発生した被害の甚大性、被害拡大の危険性に鑑み、弁護人主張の経済的利益よりも人命の尊重という、より価値の高い利益が優先されるべきであり、また、当時、水俣病については、大学研究機関、厚生省当局等の専門的機関において、前示の通りの科学的、合理的な理由のある極めて強い疑いが工場排水にかけられていたのであるから、新日本窒素肥料株式会社の代表取締役社長として同会社の業務全般を総理し、水俣工場担当取締役兼同工場長を直接指揮監督していた被告人吉岡ならびに同工場の業務全般を処理し、同工場におけるアセトアルデヒド排水の流出を伴うアセトアルデヒドの製造を直接指揮して遂行させていた被告人西田の両名は、いずれも水俣病の原因物質を含有する工場排水を水俣川河口に排出しない措置を講ずることが可能であり、かつ、これを期待できたものである。

よつて、弁護人の右主張はこれを採用しない。

第五量刑の事情

被告人両名に対する刑を量定するにあたり、まずもつて考慮しなければならないのは、本件被害者の罹患した水俣病による被害の悲惨さである。水俣病患者の症状は極めて重いうえ、水俣病による死亡率は高く、昭和四〇年現在で36.9パーセント、胎児性水俣病患者を除外すれば44.3パーセントの高率であり、たとえ死を免れた場合でも、メチル水銀によつて破壊された神経細胞の修復は不可能であり、水俣病の治療法が国・熊本県・熊本大学等の研究機関において日夜研究されているが、未だ十分な効果を期待できない現状にある。更に、本件被害者船場岩蔵は水俣病罹患後一二年もの長期間にわたり健康な人間の機能を障害されたうえ、辛苦の日々を送ることを強いられ、また上村耕作は先天的な機能障害を負わされて出生し、水俣病のためその身体発育は、同年児と比較して極度に劣り、生後僅かに一二年余りでその生命は閉ざされたが、その間健康な人間の享受できる幸福を瞬時たりとも味合うことなく、苦痛の日々を送ることを余儀なくされるなど、本件被害者両名の被害結果は悲惨であり、また遺族の心痛も察するに余りあるところであつて、水俣病による被害の悲惨さは筆舌に尽し難いものがある。本件は被害者二名に対する業務上過失致死罪に限定されたものであるけれども、その被害の悲惨さは誠に深刻なものであつて、社会的影響も甚大なものがあり、また、特に考慮しなければならないのは、本件被害者両名が被害を蒙るについて、被害者らには責められる点が全くないということである。

次に、およそ化学工場においては、多種、多量の化学物質の化学反応過程を利用して大量の化学製品を生産するものであるから、その生産過程において種々の危険物を原料や触媒として大量に使用するため、未反応原料・触媒・中間生成物・最終生成物等から副反応生成する、予期せぬ危険な副生物が工場排水中に混入する可能性は極めて高いといわねばならない。そして、工場排水中にこれらの危険物が混入し、それについての安全対策がとられずに工場外に排出されるときは、右排水の流出によつて、動植物や人体に危害をおよぼすことが容易に予想されるのであるから、工場排水の安全性に疑惑が持たれたときには、その安全対策を講じたうえ、真摯な態度で、排水の調査・分析・研究等を行なうことは勿論、大学等の研究機関による原因究明に対して積極的に協力すべきである。

しかるに、本件においては、昭和三一年一一月三日の熊本大学医学部水俣研究班の中間研究発表会において、水俣病の原因が水俣工場の排水と極めて強い関連性がある旨指摘されて以来、同工場排水に対する疑惑が日毎に深まり、水俣病患者が次々と発生する間、被告人西田を中心とする工場関係者において、ある程度水俣病に対する調査・研究がなされていたことは窺えるが、それらは主として右研究班から指摘された被疑物質について、これを追試する目的で分析・実験するに止まり、独自に水俣病の原因となり得る物質について調査・探究するなどの真摯な原因究明の熱意に乏しく、更に、水俣病の原因究明にあたつていた熊本大学医学部水俣病研究班に積極的に協力しようとする姿勢すらも窺えないような状態であつた。また、被告人吉岡においても、水俣病をめぐる諸問題について、国会の場においても再三論議されるに至るなど大きな社会問題となつていた状況下において、会社の業務執行の最高責任者であるにも拘らず、これといつた水俣病の原因究明・被害発生の防止対策を打ち出さなかつたばかりか、現地水俣工場関係者に対しても何ら指示するところなく、殊に同工場関係者に対し、熊本大学医学部水俣病研究班に積極的に協力するよう指示した形跡は全く窺えず、同被告人が会社の業務執行の最高責任者として、水俣病の原因究明・被害発生の防止について、積極的かつ真摯な態度で臨んだことはなかつた。そして、被告人両名とも自己および同工場技術陣の化学知識を過信・妄信し、的確な根拠もないのに同工場排水は、水俣病原因物質を含有せず、安全なものであるとの主張を繰返し、被害拡大防止対策としての実効性のある適切な措置を全く講ずることなく、工場排水の流出を増加継続させ、工場製品の生産を飛躍的に増大させることにのみ終始し、その結果、本件被害を惹起せしめるに至つたものであつて、被告人両名の過失は極めて重大であり、その責任は重いといわなければならない。

しかしながら、船場岩蔵、上村耕作に関する業務上過失致死の点についてその結果発生のみに注目するならば、その捜査、公訴提起は著しく遅延しているとはいえないが、水俣川河口海域の魚介類を摂食したことによる水俣病患者発生については、昭和三四年に被告人両名の本件過失行為による被害が発生していたことを考慮すると、被告人両名の右過失行為による本件各被害について、その実行行為終了後一五年余りを経過して、その刑事責任を追及することは、余りにも歳月を経たものであつて、このように長期間を経過したこと自体については、被告人両名に格別責められる点がないことなどを考えると、本件についての可罰性が減弱することは否定し難い。

ところで、昭和三二年三月に水俣病問題が初めて国会で取り上げられ、翌年六月にも再度論議されるに至り、そして同年七月には、水俣病の被害が甚大で、同病の原因物質が、新日本窒素肥料株式会社水俣工場排水に含有されている疑いが極めて濃厚である旨のいわゆる厚生省公衆衛生局長通知による要請がなされていたにも拘らず、同会社の監督行政官庁である通産省においては、同会社に対して何ら行政指導を行なつた形跡は窺えないのであるが、その後のサイクレーター完成については、同省の助言により本来の完成時期より極めて早く完成するに至つた経緯等に鑑みるならば、同省の幹部において、同会社の監督行政官庁でない厚生省の地道な研究等にも虚心に耳を傾け、同省と連携して速やかに適切な行政指導をしておれば、被告人両名においても、判示のような安易な態度に終始することはなかつたであろうといえるのであつて、この点を考慮すると被告人両名の責任にも若干酌量の余地を認めざるを得ない。更に、被告人両名は社会的にかなり強い非難を浴び、既にある程度の社会的制裁を受けており、また、その後、本件被害者両名を含めて水俣病認定患者に対し一応の被害補償がなされている。

最後に、本件は企業活動に伴う公害犯罪であつて、その企業組織上の責任者たる地位にある者に対しては厳しくその責任を追及すべきものではある。しかしながら、本件がいわゆる構造型公害による犯罪であるとの特殊性はこれを認めるとしても、現行刑法の個人責任の原則に立脚して判断すべきものであることは論をまたないところであつて、以上の諸事情を総合し、かつ、現在、被告人吉岡は七七歳、被告人西田は六九歳の高齢である点も勘案のうえ刑を量定した次第である。

第六法令の適用

被告人両名の船場岩蔵および上村耕作を死に至らしめた判示業務上過失致死の所為は、いずれも、行為時においては昭和四三年法律六一号刑法の一部を改正する法律による改正前の刑法二一一条前段、昭和四七年六一号罰金等臨時措置法の一部を改正する法律による改正前の罰金等臨時措置法三条一項一号に、裁判時においては改正後の刑法二一一条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するが、犯罪後の法律により刑の変更があつたときにあたるから、刑法六条、一〇条により軽い行為時法の刑によることとし、右は一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから、刑法五四条一項前段、一〇条により一罪として犯情の重い上村耕作に関する業務上過失致死罪の刑で処断することとし、所定刑中禁錮刑を選択し、前記量刑の事情を考慮し、その所定刑期の範囲内で被告人両名をいずれも禁錮二年に処し、その情状を特に考慮して、同法二五条一項によりこの裁判の確定した日から、被告人両名に対し、いずれも三年間それぞれその刑の執行を猶予し、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文、一八二条を適用して、被告人両名に連帯して負担させることとする。

なお、公訴事実中、被告人両名が、中村末義、船場藤吉、緒方福松および篠原保を死に至らしめたとする各業務上過失致死罪並びに緒方ひとみを傷害したとする業務上過失傷害罪については、いずれも公訟時効が完成しているから、刑事訴訟法三三七条四号により免訴すべきところ、右は船場岩蔵および上村耕作を死に至らしめた判示の各罪と一個の行為にして数個の罪名に触れる関係にあるものとして起訴されたものであるから、主文において特に免訴の言渡をしない。

よつて、主文の通り判決する。

(石田實秀 松尾家臣 加登屋健治)

別紙第一図ないし第十の2図、公訴事実本文〈省略〉

公訴事実被害者一覧表(編注――公訴事実末尾に添附されたもの)

番号

氏名

生年月日

発病年月日

(昭和・年・月・日頃)

発病場所

病名

死亡年月日

(昭和・年・月・日)

死亡場所

死因

1

中村末義

明治四〇年

三月一五日

三四・四・六

水俣市浜町三―九―八

中村末義方

水俣病

三四・七・一四

同市天神一―二―一

水俣市立病院

嚥下性肺炎

2

船場藤吉

大正一四年

一一月七日

三四・九・一一

熊本県芦北郡津奈木町岩城二、二八〇

船場藤吉方

水俣病

三四・一二・五

前記水俣市立病院

嚥下性肺炎

3

緒方ひとみ

昭和三四年

九月一二日

三四・九・一二

同県同郡芦北町大字女島四八六―一

緒方義人方

胎児性水俣病

(全治不能)

4

緒方福松

明治三一年

一月二五日

三四・九・中

同県同郡芦北町大字女島四八六―一

緒方福松方

水俣病

三四・一一・二七

前記水俣市立病院

嚥下性肺炎

5

船場岩蔵

明治二五年

六月一四日

三四・九・二七

同県同郡津奈木町岩城二、二八〇

船場岩蔵方

水俣病

四六・一二・一六

水俣市大字浜三、〇八〇

水俣市立付属湯の児病院

嚥下性肺炎

6

篠原保

大正二年

五月六日

三四・一〇・一五

同県同郡津奈木町大字福浜二、七一六

篠原保方

水俣病

三四・一一・二八

前記水俣市立病院

嚥下性肺炎

7

上村耕作

昭和三五年

八月二八日

三五・八・二八

同県同郡津奈木町大字福浜一、六八六

上村敏光方

胎児性水俣病

四八・六・一〇

京都府宇治市小倉町西浦九一―三〇

上村敏光方

栄養障害

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